ゲシュタルト療法や禅などでよく語られる
「気づき」や「今ここに在る」という言葉は、今では広く知られるようになりました。
けれど実際には、その大切さは分かっていても「何を意味しているのか」がいまいち実感できないまま使われていることが多いように思います。
目的達成型・未来志向の社会の中ではそれもある意味、当然なのかもしれません。
過去と未来という“空想”が生み出すもの
人は「過去」や「未来」という空想に意識を向け過ぎている限り、本当の意味で「自分を満たす」という体験をすることができません。
そこに生まれてくるのは、ほとんどの場合 “不安” だけです。
不安とは
「あるべき姿」と「あるがままの現在」との衝突であり、まだ訪れていない未来と、すでに消えている過去という空想が現在を否定し続けることで生まれています。
重要なのは、その過去や未来という空想を生み出しているのがすべて「現在の自分」だということです。
「今ここに在る」ということ
「今ここに在る」とは、このことに気づき、どんな〈あるべき姿〉も持たないということです。
生き方とは「何かのように生きる」ことではなく、今この瞬間の自分を見失わずに、変化の中に居続けながら “今意味のあること” をしていること。
私は今日
何かのために生きたいのではなく、
ただ、そのことのためだけに生きたい。
目的地にたどり着くために車を走らせたくはない。
流行に乗り遅れないために学びたくはない。
自分を売り込むために何かをやりたくはない。
「いい人」と言われるために誰かに何かをしてあげたくはない。
お金を稼ぐために働きたくはない。
働くことそのもののために働きたい。
今日、私は
「何かのために」生きたくない。
ただ、生きたいのだ。
あるがままにあり、なすがままになす
やらなくてはいけないのは、
自分のリズムと丁寧に合わせていくことです。
やらなくてもいいものにまで手を出さないこと。
私の力は “明日の自分” ではなく、
“今の自分” にある。
「あるべき自分」ではなく、
今、この瞬間の自分に合わせていくこと。
明日は浅い所にある。
今日は真理と同じほど、深い。
― ヒュー・プレイサー
今ここに戻るための小さなワーク
- 目を閉じて、息を一度だけ「吐く」(まず吐くことで、自然に息が入ってきます)
- 身体のどこか1か所だけ選んで感じてみてください
・足の裏が床につく感覚
・お腹が上下する動き
・手が何かに触れている感触
どこでも構いません。 - その感覚が “今ここ” でしか起こっていないことに気づきます。
- 過去でも未来でもなく、「今、この瞬間の身体」にだけ確かに起きている感覚です。
- 何も判断せず、10〜20秒ほどそのままで。
このほんの数十秒だけで、
「あるべき姿」から “今の自分” にリズムが戻っていくのを
誰でも少しずつ感じられます。
必要な時に、いつでもどうぞ。

