
私たちは、感情とは「心」の中で生まれるものだと考えがちです。
悲しみ、不安、寂しさ、怖さ。そうした感情に名前をつけ、言葉で整理し、理由を探すことで、自分を理解しようとします。
しかし、少し立ち止まって身体の声に耳を澄ませてみると、感情は頭の中だけで起きているものではないことに気づきます。
悲しいときには胸がつまります。不安なときにはお腹が固くなり、怖いときには呼吸が浅くなります。
反対に、安心しているときには身体の奥がふっとゆるみ、呼吸が自然に深くなっていきます。
感情は、いつも身体とともにあります。
では、私たちがまだ言葉を持たず、「私」と「世界」の境界さえはっきりしていなかった頃、私たちはどこで世界を感じていたのでしょうか。
そのひとつの答えが、母親のお腹の中にいた頃の身体です。
身体心理療法の一つであるバイオシンセシスは、思考・感情・行動をばらばらに扱うのではなく、生命の流れとして見ていくアプローチです。
デイヴィッド・ボアデラによって体系化されたこの方法は、胚発生、呼吸、筋肉、感情、イメージ、関係性を統合的に捉えます。
本稿では、このバイオシンセシスの視点を手がかりに、言葉以前の身体に残る原初的な関係性、つまり「へその緒の感情」について見ていきます。
これは、胎児期の出来事を事実として断定するためのものではありません。
むしろ、今の身体に現れている微細な感覚を通して、言葉になる前の「私」がどのように世界を感じていたのかに、静かに耳を澄ませる試みです。
へその緒は、最初の関係性である
胎児にとって、へその緒は母体と自分をつなぐ生命線です。
酸素や栄養を受け取るための通路であり、生命を維持するために欠かせないつながりです。
しかし、身体心理療法の視点から見ると、へその緒は単なる栄養路ではありません。
それは、人間が最初に経験する「関係性」の象徴でもあります。
まだ自分で呼吸することも、地面を踏みしめることも、世界に向かって働きかけることもできない時期。
私たちは、へその緒を通して生命を受け取っていました。
そこには、受け取ること、委ねること、つながること、支えられることの原型があります。
それらは、生まれてから頭で学んだものではなく、身体が最初に経験していた関係性のあり方です。
現代社会では、自立することがよいこととされ、依存や甘えは弱さのように扱われることがあります。
しかし、人間の生命は最初から一人で成立していたわけではありません。
私たちは、誰かの身体を通して生命を受け取り、支えられ、つながることによって生き始めました。
その意味で、へその緒の感情とは、弱さの記憶ではありません。
それは、他者とつながり、生命を受け取るための根源的な力の記憶です。
ここにいていいのか、受け取ってもいいのか、委ねても大丈夫なのか、世界はあたたかい場所なのか。
こうした問いは、頭で考える問いではありません。それは、存在そのものに関わる身体の問いです。
身体が語る、言葉以前の原風景
セラピーの中で、クライアントが身体の奥深くへ意識を向けていくと、ときに胎児期を思わせるような情動の風景が現れることがあります。
お腹の奥が冷たい感じがする。水の中にいるような感覚がある。包まれているはずなのに安心できない。
浮いているのに落ち着かない。暗く、狭く、圧迫されているように感じる。出たいのか、出たくないのか分からない。
あたたかさが届いてこない。
こうした感覚は、過去の事実をそのまま映し出しているというより、今の身体が、言葉以前の情動をそのような風景として表現していると捉える方が自然です。
ある人は、深い静けさの中で、「守られているはずなのに安心できない」と感じるかもしれません。
また別の人は、「包まれているのに一人で冷たい」「浮かんでいるのに休めない」「水の中にいるのに、あたたかさが届いてこない」と感じるかもしれません。
このような感覚は、思考では整理しきれません。
なぜなら、それは言葉になる前の身体の問いだからです。
ここは安全なのか、自分は受け取ってもいいのか、ここにいてもいいのか、つながることは安心なのか、それとも怖いことなのか。
身体は、言葉になる前から、世界を安全な場所として、あるいは緊張を強いられる場所として感じ取っていたのかもしれません。
もちろん、これを「本当に胎児期の記憶である」と断定する必要はありません。
大切なのは、その感覚が今、身体にとってどれほどリアルなものとして現れているかです。
呼吸が浅くなる。お腹に力が入らない。背中が硬くなる。胸が開かない。
人に委ねようとすると怖くなる。受け取る場面になると緊張する。
こうした現在の身体反応の奥に、かつて十分に支えられなかった「受け取る力」や「委ねる力」が残されていることがあります。
身体は、過去を物語として覚えているのではなく、反応として覚えています。
グロフの周産期マトリックスという視点
精神科医スタニスラフ・グロフは、人間の深い無意識に、胎内や誕生過程と結びついた体験領域があると考え、それを「周産期マトリックス」として整理しました。
その中でも、第一のマトリックスは、胎内での一体感や海のような包まれ感と関係します。
そこには、境界が溶け、存在そのものが肯定されているような感覚があります。
一方で、第二のマトリックスは、子宮収縮が始まっているにもかかわらず、まだ出口が開いていない状態と結びつきます。
ここでは、圧迫感、閉塞感、逃げ場のなさ、出口のない絶望感といった体験が語られます。
人生の中で、動きたいのに動けない、変わりたいのに出口がない、誰にも助けを求められない、狭い場所に閉じ込められているように感じることがあります。
そのようなとき、身体は単に現在の状況だけに反応しているのではなく、より深い層にある原初的な閉塞感と響き合っていることがあります。
もちろん、現在の苦しみをすべて出生体験に還元する必要はありません。
それは、あまりに単純化された理解です。
とはいえ、グロフの地図は、身体の奥で起きている体験を理解するための一つの補助線として使うことができます。
バイオシンセシスと三胚葉の連続性
バイオシンセシスの大きな特徴は、胎生学における三胚葉の発達と、人間の心理的・身体的な働きを重ねて見る点にあります。
内胚葉は、内臓、呼吸、深い情動の流れと関わります。
中胚葉は、筋肉、骨格、姿勢、動き、行動する力と関わります。
外胚葉は、皮膚、神経、感覚、知覚、思考、イメージと関わります。
私たちはよく、頭で考え、身体を使い、感情を処理するものとして、自分自身を分けて捉えます。
しかし、発生のはじまりにおいて、それらはひとつの生命の流れから分化してきたものです。
感じること、動くこと、考えることは、本来別々のものではありません。
しかし、強いストレスや早期の不安定な環境の中で、この流れが分断されることがあります。
頭では分かっているのに身体がついてこない。動いているのに感情が感じられない。感じているのに行動に移せない。
考えすぎて身体の実感が失われる。
こうした状態は、思考・感情・行動の流れが切り離されているサインでもあります。
現代人の多くは、頭で考え、身体を道具のように使い、感情を後回しにしながら生きています。
その結果、外側には適応しているのに、内側ではどこかバラバラな感じがすることがあります。
頑張れているのに満たされない。人と関わっているのに、つながっている感じがしない。生活は成り立っているのに、生きている実感が薄い。
バイオシンセシスは、このばらばらになった生命の流れを、もう一度つなぎ直していくアプローチです。
それは、思考を否定することではありません。感情だけを大切にすることでもありません。身体だけに戻ればいいということでもありません。
思考、感情、行動が、再びひとつの生命の流れとしてつながっていくこと。
そこに、バイオシンセシスの本質があります。
分析しないことで、回復が始まる
身体から言葉以前の感覚が現れたとき、最も注意したいのは、急いで意味づけないことです。
「これは胎児期のトラウマだ」「これは母親のせいだ」「これは出生時の記憶だ」「これは過去の傷だ」。
そのように決めつけてしまうと、身体が今まさに語ろうとしている繊細なプロセスが止まってしまうことがあります。
身体の感覚は、分析されるために現れているのではありません。
まずは、感じられるために現れています。
冷たさがあるなら、その冷たさが身体のどこにあり、どのような質感を持っているのかを丁寧に感じていきます。
圧迫感があるなら、それをすぐに取り除こうとせず、どの方向から、どのくらいの強さで感じられているのかを見ていきます。
怖さがあるなら、怖さを消すのではなく、その怖さと安全に距離を取りながら関わります。
あたたかさがないなら、ないという感覚そのものを、急がずに受け止めていきます。
これは原因探しではありません。
身体の中に残っている、未完了の関係性に触れていく作業です。
分析という刃で切り分けるのではなく、沈黙と共鳴の中で寄り添うこと。
そのとき、かつて止まっていた生命の流れが、少しずつ動き始めます。
セラピーで大切なのは、答えを急がないことです。
なぜそうなったのか、誰のせいなのか、どの出来事が原因なのかを急いで探すよりも前に、今ここで身体がどのように存在しているのかに気づくこと。
呼吸の浅さ、お腹の固さ、背中の緊張、足が床を感じているかどうか、目が世界を見ているかどうか、誰かの存在を受け取れるかどうか。
こうした小さな身体感覚の中に、回復の入り口があります。
母親もまた、生命の場の一部だった
へその緒の感情を扱うとき、もう一つ大切なことがあります。
それは、この作業を母親への責任追及にしないことです。
胎児期の体験を見つめるとき、どうしても「母親が不安だったから」「母親が十分に安心していなかったから」と、原因を一人の人物に置きたくなることがあります。
しかし、それでは生命の場全体が見えなくなってしまいます。
母親もまた、一人の身体を持った人間でした。
その人自身の不安、孤独、疲労、社会的な圧力、支えのなさ、時代の空気の中で生きていたのです。
胎児期の環境とは、母と子だけで閉じたものではありません。
家族、社会、時代、関係性、身体の状態。それらすべてを含んだ、大きな生命の場です。
だからこそ、へその緒の感情を辿る旅は、誰かを加害者にするためのものではありません。
その場で何が起きていたのか、身体はどのように生き延びようとしたのか、今、その身体は何を取り戻そうとしているのか。
そこに耳を澄ませることです。
これは、責めるための理解ではありません。
凍りついた身体の歴史に、慈しみを向けるための理解です。
母親を責めるのでもなく、過去を否定するのでもなく、そこにあった生命の精一杯の動きを見ていく。
その視点があるとき、私たちは犯人探しを超えて、世代を超えて受け継がれてきた緊張を、少しずつほどいていくことができます。
受け取る力を取り戻す
へその緒の感情を回復していくプロセスは、頭で理解するだけでは届きません。
それは、身体の奥で少しずつ起きる体験です。
強張っていた筋肉がふっとゆるみ、浅かった呼吸がお腹の底まで届くようになる。
背中が支えを受け取り、足が床に触れていることを感じ、内側にじんわりとしたあたたかさが戻ってくる。
そのとき身体は、ここに存在していてもよいという静かな感覚を取り戻していきます。
これは、頭で唱える自己肯定とは少し違います。
言葉になる前の場所で、身体そのものが安心を取り戻していく体験です。
どれほど冷たく、孤独な感覚の中にいたとしても、身体の奥には、生命を受け取り、育まれてきた記憶の痕跡が残っています。
冷たさの奥にある、かすかなあたたかさ。孤独の奥にある、根源的なつながり。閉じた身体の奥にある、もう一度受け取ろうとする力。
それを丁寧に感じ直していくことが、へその緒の感情に触れるということです。
言葉になる前の「私」は、今も身体の中にいる
私たちは、言葉を覚え、考え、意味づけることで、自分を理解しようとしてきました。
それは人間にとって、とても大切な力です。
しかし、言葉だけでは届かない場所があります。
説明しても変わらない感覚、頭では分かっているのに残り続ける不安、理由はないのに身体が緊張する感じ。
人といるのにどこか一人でいるような孤独、受け取ろうとすると怖くなる反応。
その奥には、言葉になる前の「私」がいるのかもしれません。
その私は、まだ説明できません。
ただ冷たく、怖く、包まれたく、離れたくなく、受け取りたく、ここにいてもいいと感じたい。
そうした声にならない声が、身体の奥に残っていることがあります。
セラピーとは、その声を無理に大人の言葉へ翻訳することではありません。
まずは、その声が身体の中にあることを認めることです。
そして、今の安全な場の中で、もう一度ゆっくりと受け取り直していくことです。
へその緒の感情とは、過去の特殊な記憶ではありません。
それは、今も身体の奥で続いている「つながり」のテーマです。
私たちは、最初から一人で生きてきたのではありません。
受け取り、支えられ、つながりながら、ここまで生きてきました。
その事実を、もう一度身体で思い出すこと。
そこから、言葉以前の身体は、静かに回復を始めていきます。
言葉になる前の「私」は、今も身体の中で静かに息づいています。
その微かな声に耳を澄ませることから、私たちはもう一度、自分という生命を受け取り直していくのです。
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