
不安になると、私たちはまず「この不安をなくしたい」と思います。
胸がざわざわする。
呼吸が浅くなる。
頭の中で同じことを何度も考えてしまう。
まだ起きていないことを想像しているのに、
身体だけはすでに危険の中にいるように反応している。
そんな時、不安は、自分を苦しめる厄介なもののように感じられます。
しかし、ゲシュタルト療法やライヒの視点から見ると、
不安は単なる悪者ではありません。
不安の奥には、本来どこかへ向かおうとしていた生命の動きがあります。
フリッツ・パールズは、
Anxiety is excitement without breathing.
不安とは、呼吸を失った興奮である。と表現しています。
ここでいう興奮とは、ただワクワクしているという意味ではありません。
身体の内側から何かが動き出そうとするエネルギーのことです。
言いたい。
近づきたい。
離れたい。
泣きたい。
怒りたい。
そうした生命の高まりが起きているにもかかわらず、
呼吸が止まり、身体が固まり、行動や表現に向かえなくなった時、
その興奮は「不安」として体験されます。

ライヒの図では、中心に「生物学的コア」があります。
これは、本来の生命力、愛、自発性、自然な欲求の源です。
そこから外側へ向かって「一次的衝動」が生まれます。
一次的衝動とは、生命が自然に外へ向かう動きです。
泣きたい時に泣く、
怒りを感じた時に怒る、
近づきたい時に近づく、
嫌な時に離れる。
とても素朴で、身体に根ざした反応です。
しかし、人はいつもその衝動を自然に表現できるわけではありません。
こうした環境の中で、一次的な衝動は止められます。
ライヒの図では、一次的衝動が抑制されると、
そこに「不安」と「二次的衝動」が生まれると示されています。
ここがとても重要です。
不安は、何もないところから突然現れるものではありません。
その手前には、もともと動こうとしていた力があります。
その力が外へ出られず、
呼吸とともに流れることができなくなった時、
身体の中に緊張として残ります。
たとえば、本当は相手に伝えたいことがある。
しかし、言ったら嫌われるかもしれない。
怒られるかもしれない。
面倒な人だと思われるかもしれない。
そう感じた瞬間、喉が詰まり、胸が固まり、呼吸が浅くなる。
「言いたい」というエネルギーは消えるわけではなく、
身体の中に残り続けます。
本人はそれを「不安」と感じます。
ゲシュタルト療法では、不安を単に取り除くべき症状としてだけ見ません。
不安の奥には、まだ形になっていない興奮や欲求があると見ます。
だから、不安を扱う時に大切なのは、いきなり不安を消そうとしないことです。
不安を消そうとすると、さらに身体は固まります。
不安を否定すると、その奥にある生命の動きまで一緒に押し込めてしまうことがあります。
むしろ大切なのは、不安の中で何が止まっているのかを丁寧に見ていくことです。
今、身体はどこで固まっているのか。
呼吸はどこで止まっているのか。
本当は何に向かおうとしていたのか。
何を言いたかったのか。
何をしたかったのか。
何を避けようとしていたのか。
ただし、これを頭で急いで答えにしようとすると、また不安は強くなります。
不安は、理屈でほどけるものではありません。
なぜなら、不安は身体の中で起きているからです。
ライヒが「筋肉の鎧」と呼んだように、私たちは感情や衝動を抑える時、
心だけで抑えているわけではありません。
喉を締める。
胸を固める。
お腹に力を入れる。
骨盤を止める。
呼吸を浅くする。
表情を消す。
そうやって身体全体で、自分の動きを止めています。
そして、その止め方が長く続くと、それは性格の一部のようになります。
いつも平気なふりをする。
過剰に礼儀正しくなる。
頑張りすぎる。
人に合わせすぎる。
怒りを感じないことにする。
弱音を言わない。
相手の反応を先回りして、自分の感覚を引っ込める。
ライヒの図でいう「外面的行動」や「性格特性」は、こうした適応の姿です。
それは悪いものではありません。
その人が生き延びるために必要だったものです。
社会の中でやっていくために、家庭の中で自分を守るために
、誰かとの関係を壊さないために、身につけてきた知恵でもあります。
しかし、その外側の適応が強くなりすぎると、
中心にある生命力とのつながりが薄くなります。
本当は何を感じているのか。
本当は何を望んでいるのか。
本当は何が嫌なのか。
本当はどこへ向かいたいのか。
それがわからなくなる。
すると人は、不安になります。
不安とは、自分が弱いから起きるものではありません。
むしろ、自分の中でまだ生きているものが、
出口を探している状態だと言えます。
パールズの「呼吸を失った興奮」という言葉は、ここをとてもよく表しています。
興奮があるということは、そこに生命の動きがあるということです。
けれど、呼吸が失われると、その興奮は流れません。
流れない興奮は、身体の中で圧力のようになります。
その圧力を、私たちは不安として感じます。
だから、ゲシュタルト療法では「今ここ」に戻ることを大切にします。
今、実際に何が起きているのか。
今、私は何を感じているのか。
今、身体はどう反応しているのか。
今、目の前の相手とどのように接触しているのか。
未来の想像の中に入り込みすぎると、不安は大きくなります。
過去の記憶に引き戻されすぎても、不安は強くなります。
けれど、今ここで足の裏を感じ、呼吸に気づき、目の前の現実に戻ってくると、不安は少しずつ姿を変えます。
不安が完全になくなるわけではありません。
しかし、不安に飲み込まれている状態から、
不安に気づいている状態へと変わります。
この違いは大きいです。
不安そのものが問題なのではなく、不安と一体化してしまい、その奥にある動きが見えなくなることが苦しさを強めます。
不安に気づくことができると、その奥にある一次的衝動に少しずつ触れられるようになります。
本当は、嫌だった。
本当は、助けてほしかった。
本当は、怒っていた。
本当は、近づきたかった。
本当は、離れたかった。
本当は、自分の声を出したかった。
こうした気づきは、安心できる場の中で、
身体が少しずつ許した時に、自然に現れてきます。
そして最も大切なのは、外側の仮面を壊すことではないと言うことです。
頑張ってきた自分を否定しないことです。
防衛してきた身体を責めないことです。
不安を悪者にしないことです。
ライヒの図が示しているように、外側には適応があります。
その奥には不安や防衛があります。
さらに奥には、本来の生命力があります。
変容とは、外側の自分を捨てて別人になることではありません。
外側の頑張りを否定せず、中にある不安を丁寧に受け止め、
その奥にある生命の動きともう一度つながることです。
不安は、消すべき敵ではありません。
それは、呼吸を失った興奮です。
止められた生命力です。
まだ言葉になっていない欲求です。
だから不安を感じた時、まず必要なのは「なくそう」とすることではありません。
今、身体の中で何が止まっているのか。
どこで呼吸が浅くなっているのか。
何が外へ向かおうとしていたのか。
そこに静かに気づいていくことです。
不安の奥には、まだ生きている自分がいます。
その自分に出会うことが、ゲシュタルト療法でいう「今ここ」に戻るということなのだと思います。
salonsonomamaでは、ゲシュタルト療法、心理カウンセリング、ボディサイコセラピー、ムーブメントインテリジェンス、ポリヴェーガル理論などをベースに、
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